懐かしい思い出を語って

亜衣ちゃん。
あの日、あなたの事故の知らせを聞いて、私は頭の中が真っ白になりました。
あなたがもう、この世のどこにもいないなんて。
今、こうしていても惑い夢を見ているような気持ちです。
亜衣ちゃんがわが家のお隣に引っ越してきたのは、十五年以上前、私たちが中学校に入学した年のことでした。
私、がピカピカのお家をのぞき込むと、亜衣ちゃんが飛び出してきて「初めまして」とあいさっしてくれましたね。
ハキハキした物言いと、かわいい笑顔に、すっかりうれしくなったのを覚えています。
あれ以来私たちはずっと親友でした。
中学校ではいっしょにバドミントン部に入り、ぺアを組んで試合にも出ました。
私がどんなにミスを連発しても、亜衣ちゃんはいつも笑顔でいてくれましたね。
あなたはやさしくて、あなたの笑顔£』見ると不思議とイライラがしやすまって試合に集中できたのを覚えています。
最近の亜衣ちゃんの趣昧は一人旅でした。
フラッと出かけ、旅先からは必ず私に絵葉書を送ってくれました。
いつも、人に親切にしてもらった、美しい土地で美しい心に出会えてうれしかった、とつづられていました。
亜衣ちゃん。
それはあなたの笑顔が人をやさしい気持ちにするからなのです。
あなたに人の心をなごませる力があったからだと思います。
亜衣ちゃん。
そんなあなたの笑顔を、もう、見ることはできないのですね。
旅行が好きだからといって、こんなに早く逝ってしまわなくても園いいのに。
私は悔しくてなりません。
亜衣ちゃん。
あなたはあなたらしく、精いっぱいの笑顔で自由に生きた。
もう、会えないのは寂しいけれど、これからもずっと親友でいようね。
亜衣ちゃん、どうぞ、安らかにお休みください。
さようなら。

幼いころの思い出から故人の人柄を

川村哲さん。
このような場ですが、いつもどおりにテッちゃんと呼ばせてください。
テッちゃん。
君の計報を聞いて、私はしばらく言葉が出ませんでした。
まるで分身を失ったかのように寂しくて悲しい気持ちです。
私たちのつきあいは、もの心ついたころからだから、六十年にもなります。
小さいころは朝から晩まで泥んこになってよく遊んだね。
川でメダカをとったり、野原でトンボを追いかけたり。
いたずらもよくしましたね。
狭い小屋の中でかわいそうだと、向かいの家のニワトリをこっそり放してやったときは、大騒ぎになって、ずいぶん親にしかられたなあ。
でも、テッちゃんといるとき、わんぱく仲間は、いつも胸をワクワクさせていたよ。
君は遊びを見つける天才でした。
入院中でさえ、楽しそうだつた。
だから、右ともう一度、愉快に過ごせるときがくると信じていたのに。
ほんとうに伐念です。
テッちゃん。
いっしょに遊べるときもそう速くない。
それまで待っていてくれたまえ。
さようなら

 

仏式ではない葬儀では表現に気をつげて

中島雅巳さんのご霊前に、ともしび会を代表して謹んで申し上げます。
中島さんは十年間にわたり、ともしび会の代表として、コーラス好きな私たちを支えてくださいました。
ともしび会ができたのは、私たちPTA仲間が「コーラスがしたいけれど、どうやって始めたらいいかしら」と、中島さんに相談したのがきっかけでした。
中島さんは、練習場の手配や指導者への依頼、仲間さがしなど、すべて引き受けてくださいました。
恐縮する私たちに、実は、ご自身も大学時代はグリlクラブで歌っていたと打ち明けられ、「男も仲間に入れてくれるのが条件ですよ。
男女が仲よく協力していかなくては、〈云も、世界もつぶれてしまいます」と、おっしゃったのでした。
週二回のともしび会の練習はいつもなごやかで笑いがあふれでいました。
おおぜいの人が集い、大したもめ事もなくやってこられたのは、すべて中島さんのおおらかなお人柄と人脈の賜物だったと思います。
特に、コーラスサークルには珍しく、男性陣の参加が多く、男女が助け合う大切さを実感したことが、ともしび会の何よりの財産だと思っております。
今さらながら、中島さんのお力と発会当初の含蓄のあるお言葉に感心するばかりです。
ほんとうにありがとうございました。
中島さんのご遺志を継いで、私たちはこれからも楽しく活動してまいります。
もっと中島さんのテノールをお聞きしたかったし、いっしょに歌いとうございました。
ほんとうに残念でございますが、これからも空のかなたから私たちを応援していただきたいと存じます。
中島さん、ほんとうにお世話になりました。
私がそちらに問うまで、しばしのお別れでございます。
さようなら。

 

お菓子作りを遇してやさしい人柄を語って

翠さん。
あまりにも突然なことに驚いています。
今でも、お教室に人れば、あなたが白いエプロン姿で立っているように思えてなりません。
私たちはSお菓子教室の第一期生。
習い始めて凶作サ目になりました。
翠さんは「子どもに安全でおいしいお菓子を食べさせたいから」と、とても熱心でしたね。
「おいしい、あしたも作ってと言われた」「かわいいと喜んでくれた」など、お子さんたちの感想をいつも、うれしそうに話していました。
私たちはみんなあなたに感心していました。
同じ材料、同じ分品、同じ作り方をしても、あなたが作ると、なぜかやさしい昧がして、仕tがりがとてもきれいでしたから。
お梨子には作者の人柄や特徴が不思議に表れるものですね。
やさしくてセンスがよくて、よく気のつく裂さんだから、素敵なお菓子ができたのでしょう。
翠さん。
あなたとも、あなたの作るお菓子とも、お別れですね。
今まで、ほんとうにありがとうございました。
心からご冥福をお祈りします。

 

おおらかな人柄を語って

望月仁さんのご霊前に、菊寿会を代表してお別れの言葉をささげます。

望月さん。
今こうして、あなたのご遺影に向かっていても信じられない気持ちでいっぱいです。
春になって暖かくなったら、また、お元気な姿でお会いできるものと思っておりました。
他の老人クラブ同様、菊寿会も女性が優性。
男性は人数が少なく、元気さも今一つです。
その中で意気軒昂、いつもはつらつとされていたのが望月さんでした。
マイペースで小さなことは気になさらない、けれど、心配りは忘れない。
人生の達人の趣がありました。
「若いころに大病したが、助かった。
今の僕の人生はおまけで土と笑っていらっしゃいましたね。
みんなに慕われ、愛される秘密はそのお考えにあったのでしょう。
菊寿会のみんなが、望月さんのようにありたいと思っておりました。
そう遠くないうちに、菊寿会のメンバーも全員そちらに引っ越すことになります。
また、みんなで集まって楽しくやりましょう。
望月さん。
長い間お疲れさま。
お世話になりました。
心からご冥福をお祈りして、お別れの言葉とさせていただきます。

 

親しみのある言葉で感謝の気持ちを

伯父さん、甥の太郎です。
とうとうお別れのときがきてしまいました。
もう伯父さんの笑顔に会えないと思うと、とてもつらいです。
早くに父を亡くした僕にとって伯父さんは、父親にかわる存在でした。
江戸っ子で大工だったせいか、口にする言葉はきつく聞こえたけれど、ほんとうはとてもあたたかくて、僕を実の子どものようにかわいがってくれましたね。
材木の切れ端で船や車を作ってくれたこと、ほんとうにうれしかったなあ。
カンナをかけているときも、ノコ(のこぎり)を引いているときも、伯父さんはカyコよくて、僕はあこがれていました。
一年前に脳血栓を忠って体が不自由になってからも、伯父さんは変わらなかったね。
自分には悪態をついていたけど、けっして人に当たったり、文句を言ったりはしなかった。
年はとってもカッコいい人だなと、僕はあらためて感心していたよ。
遊びにいくと、「いつも、ありがとよ」と、こっちがすまなくなるくらい喜んでくれて。
もっと会いに来ればよかった。
伯父さん、どうか安らかにお眠りください。

 

会社としての謝意と決意を込めて

本日、ここに故・大倉健介さんの葬儀を行うにあたり、Z安全保障株式会社を代表いたしまして、謹んで惜別の言葉をささげます。
私は社長の佐藤幸太郎でございます。
大倉さんは、去る三月十六日、現場で歩道の安全確認の任務を遂行中に事故に巻き込まれ、帰らぬ人となられました。
享年三十八歳でした。
現場責任者の報告によりますと、ロープの断裂により鋼材が倒れたもので、大倉さんはいち早く異常に気付き、通行中の方の安全確保に尽力されました。
一般通行者はご無事でしたが、大倉さんの尊い命が犠牲となってしまったのでございます。
・をたたえ、社業に励む決意を大倉さんはわが社にとって大きな存在でありました。
責任感が強く、穏やかな人柄で、信頼され、慕われておりました。
取引先から「彼の機転のおかげで無事に作業が終了した」「親切な対応のおかげでトラブルが避けられた」といった、感謝の声もたくさん寄せられておりました。
入社以来二十年、新人の研修や後輩の指導といった場での、いっそうのご活躍をお願いしようと考えておりましたやさきに、大倉さんを失った驚きと悲しみは、筆舌に尽くしがたいものであります。
ご家庭では、一人の息子さんとの日曜大工の時間を何よりの楽しみにしていたと伺います。
このように素晴らしい夫を、父親を失われたご遺族の皆様の胸中をお察ししますと、痛恨のきわみでございます。
今後は、このような悲しい事故が二度と起こらないように、安全対策をさらに徹底し、大倉さんの遺志を継いで社員一同、社業に励む所存でございます。
大倉さん。
長い間、本当にありがとう。
お世話になりました。
ご冥福お祈りして弔辞といたします。

 

会社の発展に尽くした姿を語って

株式会社マースシステム・故石山文昌社長の御喜に、謹んでお別れの言r安住申し上げます。
石山社長は本年三月、会議中に突然倒れ、直ちに入院なさいましたが、去る四月二日、四十一歳の若さで生涯を閉じられました。
石山社長は十五年前、二十六歳の若さで独立、当社を興され、順調に新作ゲームをヒットさせて現在に至りました。
浮き沈みの激しいゲーム業界において、当社がここまで発展してまいりましたのは、石山社長の経営手腕と卓抜したアイディアの賜物です。
しかし、社業の順調さと激務の陰で、健康がむしばまれていたとは。
社長は一度も不調を訴えられることなく、経営に奔走される中、このような悲しい結果となってしまいました。
社員一問、悲嘆に暮れております。
このうえは社長のご遺訓に従い、社員一問、力を合わせて村長の発展に尽力する所存でございます。
石山社長、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

行為そのものにはふれすに、無念さを語って

岸山君。
どうしてこのようなごとになってしまったのだろう。
君が突然いなくなってしまうなど、私には信じられません。
君と私はL生命保険会社で同期でした。
君は営業、私は査定、と所属は違っていましたが、妙にウマが合って、入社当時はよく飲みにいきましたね。
しかし、君は実に忙しくて、勤務は早朝から深夜に及び、休日出勤も多く、いつの間にか語り合うこともなくなってしまいました。
ようやくゆっくり話ができたのは、人員削減が始まったころで、私は会社を去る決意をし、君は社の建て直しの最前線に立って、全力を注ぐと決めていました。
「信頼してくれる代理店を裏切ることはできない。
おれはがんばる」と。
君は人一倍、責任感の強い人でしたね。
あれから君の心にどんな変化が訪れていたのだろう。
あのとき、もう少し、君の話を聞いていれば、もう一度、声をかけていれば。。。。
君の苦しみをわかつてやれなかったことが、私には悔しくてなりません。
でも、岸山君。
君は精いっぱいがんはったと思います。
どうか、安らかにお眠りください。
さようなら。


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